エーデルワイス通への道

定期演奏会裏チラシ傑作選

Edelweiss Brass Infomation 第10回記念特別号より


 エーデルワイスの歴史・その集約的10周年記念特別号達


 毎月1回発行される『Edelweiss Brass Infomation』。なかでも、エーデルワイスのエッセンスを充分に含んだ第10周年記念特別号(No.88 1988.07/09)と、10周年記念コンサート特別号(Vol.9 No.93)からの抜粋をお届けします。


 下の文章は創立2年目からメンバーの親睦を深めるために始めたバンドの「交換日記」、「落書き帳」からの抜粋です。抜粋したのは創立者の一人、中尾和夫さん(バンド草創期に中心的指導者として活躍)の文章。日付は1979年8月2日です。今一度バンド創立時の思いを読んでみてください。

8月2日 I.K

 人間の一生は短いものです。 何かの縁があって、こうやってエーデルワイスへいるのも不思議なことだと思います。 みんな仕事をもち、あるいは、勉学にいそしみ…(?)日常はみんな何かのことで一生懸命生きているんですね。

人間は自由でいたいと誰でも思うでしょう。私は、「創造こそ自由だ」と思います。 そして、このブラスの中にそれがあるような気がします。 音楽そのものも創造ですけれど、みんなあつまっている、このブラスそのものが 創造 だと思います。この小さな人間の群自体が。 なぜなら、みんな自分の自由な意志でこのブラスに参加しているからです。そして、このちっちゃな人間の社会をどうやって運営していこうかと悩みながら…。まったく考えれば苦労な話です。しかし、自分からすすんでこういう苦労の中に身を投じている…。このこと自体が、自分の自由な創造の場であると思います。おそらく、自分にとって唯一のそういう場であると思っています。

世の中には「夢」を持たない人がたくさんいることに気がつきました。そんな中で、少しでも「夢」を語れる人とふれあいたいと思います。

 夢=創造=自由

こんな人生を送れる場として、私はブラスにきています。

その昔エーデルは人材不足だった。それもなまはんかな人数ではなかったのだ!!5人!! たった5人で”MASK”をやってたなんて信じられますか?そこで皆は考えた。

”楽器を持っている人を見たら声をかけよう、そして(団員募集の)カードを渡す”という、ほとんど宗教に近いノリをやっていたのです。”僕なんか堂々と山の手線の中で声かけたもんね”なんていうの合い言葉だったのである。(マジです)

また情報誌にも積極的に出稿し、中には下のようにまさしくコビた文章でいたいけな少年少女を誘惑したのでした。メデタシ、メデタシ。

『エーデルワイス吹奏楽団メンバー募集! 特にチューバ(楽器所有の方)。もっぱら暖かい楽団として一般にも評判。一度練習を見に来ませんか。7・11・12月にコンサートを予定。連絡はハガキで。』 …情報誌・ぴあより

エーデルワイスの魅力  常任指揮者・守屋英二

 アメリカからかえってまもない頃、偶然雑誌で指揮者募集を見たという友人から勧められ、軽い気持ちでエーデルワイスに入って早くも7年。職場やスクールバンドも教えた中で妙にこれ程エーデルに引きつけられるのはナゼか。これは音楽仲間やメンバーからもよく質問されることだ。「何がそんなにおもしろいのか?」と。もちろん芳地さん(創立者の一人であり、'97年の現在も代表をつとめる)に借りがあってやっているのではない。自分自身おもしろいからである。その理由は何か。簡単にいってしまえば、自分にとって気楽さと本物とが絶妙なバランスで成り立っているのがエーデルのバンドだからである。いい意味で目標もきびしさもなく、それでいてやればなかなかの演奏ができる。これがエーデルワイスではないか。どちらかがかけていてもこれだけ長く続かなかったと思うし、これがこのバンドの魅力につながっているとも思う。50人もの人間が集まれば、いろいろな問題も生じてくる。しかし、このバランスを保っていけば必ず解決できるものと最近特に感じている。毎週参加できなくても結構。どうかエーデルとのパイプは切らないで欲しい。そして30周年、50周年の席上でも顔を見せて頂きたい。これが私の素直な気持ちです。

レット・イット・ビー

確かに本番に強いバンドだ。それは過去10年の実績が証明している。だがその甘い考えもそろそろ捨てた方がよさそうだ。「仏の顔」もそう長くは続かない。今年は”A Hard Day's Night”になるかも知れない。吉と出るか、凶と出るか? ”Give Peace A Chance”! こうなったら成すがママ、キュウリがパパなのだ。 ”Let It Be”だ。さあ、開幕のベルだ。


10th Concert Memo

 7月9日、代官山のスタジオで10周年を記念するパーティを開いた。10年前からいる最古参から今年入ったルーキーまで、心から「10年の歩み」を祝った。中には飲み過ぎて記憶を失う者も出た。(オメエだろうが…) 夏も過ぎ、コンサートは近づいて来る。おまけに10月には大垣市井70周年特別演奏会にも呼ばれている。指揮者守屋氏の郷里である。もし失敗したら彼は2度と帰れない。メンバーは遠足気分で大垣入り。何とか大垣市民の耳はごまかせた。それがまた、変な自信をメンバーに植え付けた。「うちは本番は強いから」。 東京は大垣のようには行かない! ましてや演奏曲は「展覧会の絵」、ポップスでは「チュニジアの夜」「スターウォーズ」なのだ。 ”全く!オメエら、実力を知らねーな”と外野の声も”馬の耳に念仏””豚に真珠”猫に小判””釈迦に説法””暖簾に腕押し””糠に釘”なのだ。 無事結婚式を終え、甘い生活を送る守屋氏の眉間にも思わずシワが…。12月11日、最後の練習を終えた後、守屋氏の口からはいつもの「お疲れさま」は聞くことができなかった。果たして本番は…?!

騒々しい中にも感動がある《金管楽器》

滑っても落ちても楽しさがある《木管楽器》

騒がしい中にもがある《打楽器》

オレにどうしろと言うんだ!《守屋英二(常任指揮者)》

音楽をつくりあげることによろこびを感じるすばらしき仲間達  代表・芳地博光

 1978年の春、ある雑誌のメンバー募集がきっかけで中尾さんに出会ったのがバンドの始まりです。 中尾さんは当時エーデルワイス交響楽団に関係していたのですが、意気投合した二人はブラスバンドをつくることに決めたのです。 早速メンバー募集記事を出すと共に、集まった中尾・播間・古関・粕谷・芳地が事務局として練習場や楽譜の準備に明け暮れ、やっと7月2日記念すべきスタートをきったのです。 初年の3年間は、メンバーの情熱だけがバンドを支えていたように思います。オンボロのハイエース(いつしかエーデル号と呼ばれる)に楽器を積み込みオリンピックセンターや渋谷社教館などの練習場をジプシーしたものです。 そして深夜までバンドにかける夢を熱っぽく語り合い、バンドの運営方針について議論を闘わせたものです。そして迎えた1980年12月の第二回定演(展覧会の絵etc.)は創立期の盛り上がりとその限界を感じさせる象徴的なコンサートとなりました。

 1981年は創立期のメンバーが就職や転勤などで欠けてゆき、又バンドの問題点が表面化してきました。楽しいはずなのに何か空しい…バンドにとって一番大切な『演奏する楽しさ』・『音楽を創造する喜び』が感じとれなかったのです。 演奏会の予定も立たないまま秋を迎え、「指揮者募集」記事をバンドジャーナル誌などへ出すに至ったのです。 これが守屋さんとエーデルワイス・ブラス・オーケストラの出会いです。 最初に中尾さんと二人で守屋さんに会った時、バンドの現状や問題点を説明すると共に基本的には「先生としてではなくメンバーとして入ってほしい」・「楽しさを大切にしながら素敵な演奏ができるバンドに育ててほしい」という難しい一方的な条件を出したのです。 守屋さんの指揮でバンドの音がまたたくまに生まれ変わったのことは、みなさんがご承知の通りです。 このような全くの自主団体バンドが10年も続いたのは、すべてメンバーがその持てる力をバンドに集結してきたからであると思います。メンバーのみなさん、より一層魅力あふれるバンドを目指しましょう。

このようにしてできあがったこの楽団も、もう早いもので来年20周年記念を迎えます。創立当時のメンバーはもう数人を残すのみとなってしまいましたが、当時の思想は現在のメンバーに受け継がれ、現在に至っています。

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